斉彬と若手藩士は
斉彬と若手藩士は「斉興隠居・調所失脚」で結束し、嘉永元年(1848年)、ついに琉球における密貿易を老中・阿部正弘に密告するという、一歩間違えば藩改易に成りかねない紙一重の手段に打って出る。琉球での密貿易は慶長14年(1609年)に藩祖・島津忠恒の琉球出兵以来、行われてきた公然の秘密で、薩摩藩の主要な収入源の一つであった。調所は密貿易に商人を関わらせ、利益を上げさせることで藩の借金を棒引きにさせていた。調所は阿部から直接事情聴取を受けた直後の嘉永元年12月19日(1849年1月13日)、薩摩藩江戸藩邸で急死する。これは密貿易関与により斉興が隠居に追い込まれないよう一人で罪をかぶり自殺したものとされる。
これにより調所の排斥には成功したものの、肝心の斉興は隠居しなかった為「斉彬襲封」の実現には失敗した。一方、補佐役を失った斉興はさらに斉彬を恨み、是が非でも久光に跡を継がそうと思う様になった。
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お由羅の方は我が子・久光擁立を計った調所に同情していたらしく、調所の遺児を密かに側用人として召抱える等して支援していた。一方その頃、斉彬は多数の子女を儲けていたもののその多くが幼少の内に死亡しており、生き残っていたのは女子3人だけであり久光の子女が無事に成長していたのとは全く対照的であった。斉彬派の家臣はこれを「お由羅の方が斉彬とその子女を呪ったものである」と考え、お由羅の方及び久光を擁立する家臣をこれを理由として排除しようと計った。
ここに及んで斉彬派は江戸家老・島津壱岐や二階堂主計といった改革派に加え、藩内若手の期待を得たのに対し、久光派は久宝・久徳・伊集院平・吉利仲といった斉興側近の家老で固め、調所が築いた安定を堅守しようと鋭く対立した。